不思議な心の働き からあなたへお送りする
メッセージとクリスチャンの証 


真のベテスダとは?
メッセージ:榊原 寛 牧師
 今から何年も前、私はある病院に入院をしたことがあり、お医者さんや看護婦さんには大変お世話になりました。
朝早くから、検温、血圧測定、シーツの取替えなど大変な重労働です。
 押し車には、大小のタオルと熱いお湯の入った洗面器が積まれてあります。患者の背中を拭くためです。 大変な仕事であるからこそ、してもらう方も大変に気持ちのいいものです。
 こうした看護婦の労力を軽減するように考案されたのが、清拭車だそうです。車には小さなタンクが内蔵され、蛇腹のホースの先にはスポンジ状のブラシがついていて、スイッチひとつで石鹸やお湯が出て、患者の体を洗ったり拭いたりするのです。
 ある病院で、この清拭車を使用するかしないか、数人の患者さんや看護婦さんに試したそうです。
結果的には、便利さは認められましたが、清拭は従来通り、看護婦さんたちで行なう事を看護婦さん達が決めたと言うのです。
と言うのは、何人かの患者さんから、「自分がモノになったみたい!」という意見が出て、看護婦さんからは、「患者さんに失礼だと思う!」「石鹸を吹き付ける時なんか、駆虫剤を想像させられて嫌だ!あんな機械を使うのだったら、看護婦をやめます!」という報告があったからでした。
 「看とる」という字は、「手」と「目」という字があわせて出来ています。
こじつけのようかも知れませんが、真の看護というのは、たとえ機械を使うような機会であったとしても、常に愛のまなざしで、しかも見落とすことなく相手を見、そして、真心をもって手当てをするところにあるのです。

 エルサレムには、ベテスダと呼ばれる池がありました。この池は、今でもわずかに水を湛えています。
このベテスダと呼ばれる池は、間欠泉であったらしく、時折、水がブクブクと湧き出て来るのです。その湧き出た瞬間に池に飛び込んだ者は病気が治るという言い伝えがあったために、ベテスダの池の周りには、大勢の“病人”“盲人”“足の悪い人”“やせ衰えた人”が伏せっていたのです。
 そこに、「38年もの間、病気にかかっている人」がいました。まさか38年間もベテスダのほとりに座っていたとは思えませんが、分かる限りにおいて、池の水が湧き上がってくるたびに、今度こそ自分が一番先に飛び込もうと一生懸命努力するのですが、自分の身体を自分でどうすることも出来ないのです。ベテスダの池
 誰もかれも、人のことなどかまっていられない!我先にと人を押しのけて飛び込んでしまう!いつも自分は最後まで取り残されてしまう!という事だったのでしょう。

このお話は、2000年前という時間をワープして今日的な様を見るようです。
 第1に、身体的に、精神的にかはともかく、自分で自分をどうすることも出来ない現実があるということです。
 第2に、「我先にと人を押しのけ」「人のことなんかかまっていられない」という現実です。
実に個が無視されるばかりか、「孤独」の時代になってしまったのが、現代です。

この池のほとりにいた彼を、キリストは「彼が伏せっているのを見、それが長い間なのを知って」
「起きて床を取り上げて歩きなさい」とおしゃったのです。すると彼は歩き出したのでした。

ベテスダとは
 「慈悲の家」という意味があります。真のベテスダとは、キリストご自身であります。このキリストという池に飛び込む時、真のいやしが行なわれるのです。
 慈悲とは、「最もつらい経験をした者ゆえに、すべての人を友として迎えることができる愛」を意味しています。

今日このときも、キリストがあなたにとって、いつくしみと愛の池そのものとなって下さいますように!
 



私の救い
証: 山本 博子
 私が、初めて聖書に触れたのは、十年以上も前でした。
それから、落ち込んだ時や、試練にぶつかった時などに、聖書を読みましたが、その道徳的な教えは分かっても、イエス様の事を理解する事は出来ませんでした。
自己中心的で、多くの人を傷付け、暗闇の中をさ迷っていました。思えば、絶えず、愛を求めていたのだと思います。けれど、満たされず、精神的にも、肉体的にも、ぼろぼろの状態が、長年続きました。
 一年ほど前、ある人に裏切られ、どうしても許す事が出来ず、憎みさえしました。そんなある日、昔読んだ聖書の御言葉が、まるで一筋の光が差すように、ふと思い浮かんだのです。
「悪に悪をもって報いてはいけません。むしろ、善をもって悪に勝ちなさい。」と。
又、「自分で復讐してはいけません。それは私のする事だからです。」と。
すると、不思議な事ですが、その瞬間、私はその人を許していました。信じられない位、すっと憎しみが消えたのです。
それと同時に、イエス様を信じる事が出来ました。いえ、イエス様を信じたからこそ、許せたのだと思います。
 それからは、聖書の御言葉を与えられる度に、感動し、自分の罪の深さを知り、悔い改める反面、イエス様が、私の罪をあがなう為に、十字架の上で死んで下さった事を始め、あらゆる事に感謝する事が出来る様になりました。
愛を求めて、満たされず、何度となく死ぬ事を考えていた私ですが、「こんなにも深く私を愛して下さっているお方がいる」という事に気付き、生まれて初めての喜びと平安に満たされる様になりました。
 これからも、初めの愛を忘れずに、全身全霊で、主を愛し続けたいと思います。
 

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