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メッセージとクリスチャンの証 
 
 
あなたにとって死とは
メッセージ:村上 宣道 牧師
 人が死んだ時には「不幸があって......」というような言い方をするのが常です。
ところが不思議なことに聖書には、
今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。― 黙示録 14:13 ―
と、いうことばがあります。それはいったいどうのような意味なのでしょうか?
人間にとって死は
 死は誰にとっても歓迎されるものではありません。なぜなら本来、人間は死なないですむように造られたものだったからです。
 それなのに、「ひとりの人(アダム)によって罪が世界に入り、罪によって死が全人類に広がった。― 聖書 ローマ 5:12 ―」とあるように、罪のおかげで、死は不本意に人間の世界に入り込んで来てしまったのです。その意味では、死は確かに私たちにとって不幸な出来事と言うべきでありましょう。
死はまた、不本意に親しい者との別離を余儀なくさせる不幸です。

この地上ででも
親しい者と長い間離ればなれにならなければならない時は、悲しいものですのに、それが二度と会えないということになるわけですから、その悲しみが極地に達するのは当然です。

それに人間が死を
恐れるのは、口ではたとえどのように言っていたとしても・・・・・・「人間には、1度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。― 聖書 ヘブル 9:27 ―」という事を、本能的に知っているからではないでしょうか?
私が四国で伝道していた時のことですが、いつも「俺は死にたい」と口癖のように言っていた青年がいましたが、ある時、運転を誤って車ごと海に飛び込み、もう少しで死ぬという目にあったことがありました。
命拾いした彼は「あれほど死にたいと言っていたのに、本当に死に直面した時、『死ぬのは嫌だ!』と思った」と言いました。それは「このまま死んだら、今までしてきたろくでもなかったことの決着をつけさせられる」と瞬間的に思ったからだと言うのです。

このように、死が
罪の結果から来た不本意なものとしか受けとれず、それがまた永遠の別離を意味し、そして何の希望もなく、あるいは審きが待っているかも知れない(実は確実なのですが)というそこに行くしかないのが死であるとするならば、死はまさに不幸そのものであると言わなければなりません。

主にあって死ぬ者は
 岡山でお会いしたあるおばあちゃんですが、「先生、私はある時から、何だか死ぬのも楽しみになりました。」とおっしゃるのです。「実は、人事不省に陥った時に天国の夢を見ましてね。そこでは死はおしまいじゃなくて、輝いた栄光の“み国”入る入り口だということがはっきりわかったからなんです。」
 数年後、この方は「いよいよ楽しみにしていたあの輝ける“み国”へ行ける日が来たよ。わたしは本当に幸せ者だ。ありがとう」と言いながら、天に召されて行ったそうなんです。
 不幸なはずの死に直面しながら、「私は本当に幸せ者だ」と言うことができるそれはいったい何なのでしょうか?

今から後
 この黙示録には、「今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである」とあります。
 不幸なはずの死を幸いに変えたのは、イエス・キリストの十字架により罪の贖いの完成と、死に勝利して復活されたという事実があってから後のことです。そして、この罪の贖いを完成し、復活して下さったイエス・キリストを信じる「今から後」ということなのです。
 あなたにとって死とは何でしょうか?



これから、クリスチャンとして
証:堤 正大(中学生当時)
 教会に行き始めてから14年になりました。ぼくの家は、クリスチャンホームで、何の苦労もなく、教会に行くことができました。
小学校の時は、このような面では神様に感謝する気持ちがありませんでした。でも、もしぼくがこの家の子供でなく、よその家で育っていたら、神様に出会うのもおくれるし、もしかすると、一生神様のことを知らないような人生を、ぼくは歩んでいたかもしれません。だから、ぼくはこの家に生まれたことを心から感謝します。
 昨年の夏に受洗の決心がつきました。決心した理由は、神様はぼくのような罪人でどうしようもない人間でも、ぼくを愛し、そのまま受け入れて下さるということがわかったからです。自分では今年のイースターに洗礼を受けたいと思っています。
 イースターにしようと思った理由は、イースターは、イエス様がぼくたちの罪のために十字架にかかって死んで下さり、3日目によみがえって下さった記念の日だからです。
「わたしは、よみがえりです。いのちです。」と言われたイエス様に強められて、これからクリスチャンとして生きていきたいと思っています。
 ぼくの友達や親せきの人たちにも、イエス様の救いを知ってほしいと思います。そのために祈って、イエス様のことを伝えたいと思います。
これからも、イエス様を信じ、神様を信じて従っていきたいと思います。
   

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